オタクじゃないほうのブログ

日記とか仕事のこととか

学生のときぶりにたこ焼き作った

引越し前最後の絵画教室(裸婦クロッキー)に行き、その後串カツ田中で忘年会をした。学生のときぶりにたこ焼き器でたこ焼きを作った。ひっくり返すのが下手だった。

やはり別れは寂しいもんだ。

 

引っ越した先でも絵画教室通いたい。裸婦画を油絵でやりたい。でも社会人で油絵ってな〜大変だよな〜やってる人ってどうやってやってんの?週一4時間とかでも完成する?

やるなら30号以上で描きたいんだけど部屋に絵を置く場所がない。でも油絵はやりたい 昔の絵を上から塗りつぶして新しいの描くってのが金かからないし場所も取らないやり方ってわかってるけどなるべくなら昔の絵潰したくないんだよな……上手くいかなかったやつなら別にいいけど

 

 

久しぶりに雪が積もっているのを見た。絵画教室まで自転車で行くか迷ったけど夕方になっても雪が溶けてなかったので夜になったら凍るかもしれんと思って電車で行った。帰り道凍ってたから正解だった。

実家にいたころは、冬に自転車に乗る=死(アイスバーン)だったから雪がある状態で自転車に乗ったことなかったんだけど、普段雪降らない地域でたまに降ったときって乗ってもいいのか迷う。高校生のころ路面凍ってるのに気づかなくて登校中に下り坂でカーブしたらめちゃくちゃ見事に横滑りしてタイツビリビリ膝血だらけになったトラウマがあるので、雪がある状態で自転車に乗るのビビっちゃうんだけど地元の人は割と乗ってるな。それが経験から大丈夫ってわかってるからなのか、アイスバーンを経験していないからなのかはわからんが……

 

雪国の人間って、言うほど凍った道路歩くの慣れてないと思う。融雪装置があるし、そもそも雪で道路が覆われているので「凍った道路を歩く」という状況があまり発生しない。凍ってそうなところがあったら雪があるところを歩く。そっちのほうが断然歩きやすいから。

大都会で踏み固められた雪は歩くの怖いな〜 みんな靴の裏ツルツルそうだからそれで踏み固められてめちゃくちゃツルツルになってそう(よく知らんけど)。

雪国で育ったけど凍った道の歩き方はよく知らんという話です。まあ雪国と言っても、北陸・東北・北海道とかで性質は違うのかも。

 

 

退職した

昨日退職した。

この会社で定年までやっていくのは絶対に無理だという強い確信があり、日々会社への憎しみを新たにしながら転職活動を乗り越え、ついに退社の日を迎えたがいざ迎えてみるとなかなか寂しいものだった。特に、私に目をかけてくれていた推し上司を悲しませてしまったのが本当に心苦しかった。

 

性別役割分業意識が根強く、呆れるほど年功序列であり、男尊女卑のケがあり、繁忙期には残業がアホ多く、評価制度がない。自分より遥かに金をもらっているはずの能力ヤバヤバ上司の尻拭いとマネジメントをしなければならなかった日々は本当に辛かった。適材適所という言葉をこの会社は知らねえのだなと思った。一番致命的だったのは私の持病が発症する条件が揃っていたところだったが。

 

私がいた部署は正社員で退職する人は年に一人いるかどうかってぐらいだったので、退職はおおごと感があり、それが嫌だった。この会社しか知らない、って人ばっかりなのも有り体に言えば世間知らず感があり閉鎖的で苦手だった。土地柄もあったと思うが。

もっとみんな気軽に退職し転職し、中途でばんばん人を取る流動的な職場のほうが私に向いているかも。まあそれはそれで問題はいろいろあるんだろうが。

 

退職間際になって人との交流が増えた。主に若手。

私は基本的に他者のことを「自分に『面白』を提供してくれるコンテンツ」と見ており、「信頼を培う」「心を開く」ってのがどういうことなのかよくわからない。また人間関係を継続させていくことについても今まであんまり熱心じゃなかったんだが、この年になってようやく「友達って、すばらしいな…!?」と感じるようになったので退職しても社で知り合った好き人間との関係は維持していきたいと思う。

スローガンは「人間関係メンテナンス」。友達ってほっといたらマジで消えるので。そして友達って素敵なもんなので。

 

最近、家族に対するコンプレックスが肥大してきている気がする。「家族と仲がいいエピ」を聞くと正直なところ一線引いてしまう。逆に言えば家族と仲悪い人間に対して親密さを覚える。

友達の結婚式に出て大感動した話って書いたっけ? 最近2回出たけどとにかく大感動した。愛し合う二人が家族になったところを見て。

愛し合う人間が家族になったところ見てなんであんなに感動したんだろう? 愛のある家族を知らないからですか? 私の家族関係が終わってるからですか? 私がセクシャルマイノリティだからですか?

多分私はめちゃくちゃ「家族」っつーものに憧れている。血縁じゃなくて愛で成り立ってる家族。愛を生むのは血縁じゃねえという強い信念がある。信念というか血が繋がってれば愛が生まれるっつーんなら私の家は何なんだよ。

こういう愚痴というか身の上話を誰かにしたい欲が最近高まっているが、他人の身の上話って聞かされても困るよな〜。私も興味ないし……。ココナラとかで金払って誰かに聞いてもらおうかな。

でもなんで身の上話を人に聞いてもらいたくなるんだろう。頑張ってるって誰かに認めてもらいたがってるのかな。

 

 

 

引っ越しめんどくさすぎる

そろそろ荷造りを始めないといけないのに、気がつけばまたファイアーエムブレム風花雪月(四週目)をやっていた。アホすぎる。昔からそうだった。

 

未だにノートのとり方がわからない。ページが余ってる適当なノートにそのとき勉強したこと書き込んでノートの塊の中に適当に突っ込んでおくので、後でどのノートを見返すべきかわからない。部屋にあるノート見返してみたら、一冊の中に数学と英語と中国語と天気の勉強と読んだ本の感想と日記と就活用のスケジュールと自己分析とが混在していてメチャクチャだった。そういうのが何冊もある。そういうことやってるから「ノートを見返して勉強する」って習慣がつかない。

 

高校生の頃まではまだ勉強にノートを活用していた。やっぱりノートは系統立てることが大事だな。基本中の基本だが……

 

本当はツイッターじゃなく紙の日記帳に日記をつけたい。もうすぐ生活が大きく変わるし、ちょうど年も変わるし、気合入れてやってみるか。筋トレ、ストレッチ、日記、勉強、お絵描きをルーティン化したい……あと感想ブログももっと書きたいね……

そう考えたとき、やはり第一にやめるべきはツイッター。重々わかってるが、ツイッターというSNSのあり方が私にフィットしすぎていてなかなかやめられん。

 

あるエッセイ的漫画を読んでいたらツイッターでの交流にめちゃくちゃ依存してる人がたくさん出てきて、こういう人間関係はかなり嫌だなと思った。ツイッターに依存することはあってもツイッターを介して特定の他者に依存することは絶対したくない。他者に依存するのも依存されるのも嫌すぎる。常に主体でありたい、自分の人生は自分で決めるという強い思いがある。

もし今後私がツイッターをやってるために特定の他者(など)に依存してしまい、それに自分の行動が左右されてしまうようなことになったら、そのときこそが垢消しするときです。でもきっとまたアカウント転生させるんだと思う。とにかく手軽なのがいいところなんだよな〜ツイッターは……私は思考が全部言語で、頭の中に生まれた言葉を外に出していかないとどんどん言葉が頭の中に溜まっちゃうんだよな。だからすぐツイツイしてしまう

でも私にもツイッターやってなかった時期があった。そのころは個人サイトで日記書いてた。穏やかな日々だった。また個人サイト再燃しないかな〜

 

 

 

本当に好きなものの話ってできない

私が人生で最も好きな作家は今のところ中村文則小川洋子なんですが、好きすぎてその本について語ることができない。

 

かといってもう一つのブログの方で紹介してる本たちは大して好きじゃないとかそういうことは決してなく

小川洋子中村文則の本は私の人生に食い込みすぎていて、それらについて語ると私自身について語ることになってしまうから急に筆が止まる。

鑑賞物として愛でることができる、外部にあるものはたくさん人に語れるが、内部にあるものを語るのは難しい。

 

 

中村文則『何もかも憂鬱な夜に』で生きる目的を知り、小川洋子の『博士の愛した数式』『やさしい訴え』で生きる理由を知った

本当になぁ……『何もかも憂鬱な夜に』を読んでなかったら私の人生どうなってたんだろってくらい読んだとき衝撃を受けた。私の人生の目標はこの本によって定まったと言える。

私のこの意味不明なクソみたいな人生だって生きる理由があるんですよ。これ以上の救いがあるかよ。

 

そしてその定まった目標を支えてくれる(?)のが小川洋子だ……小川洋子の書く文章って本当になんであんなに美しいの?なんであれだけの静けさと残酷さを破綻なく調和させることができるんだ……?

小川洋子の静謐な、清潔な文章、そしてあのむごたらしい物語が本当に好きだ。世界の汚さと暴力性をすくい取ってこれでもかと見せつけてくるのに、何故かその物語はいつも驚くほど美しい。奇跡みたいなんですよね本当に。

 

小川洋子の小説って、「白い」んですよね……。スカーフが電車に絡まって窒息死しようが眼球取り出そうが好きな人間がレイプされようが恋人を滅多刺しにしようがいっつも「白」。血の色や内臓の色がたくさん描写されてるはずなのに、なぜか………。

 

小川洋子中村文則の本が世界に存在してくれているから生きていけてる。

 

いろんなものを言い訳にしながら生きている気がする

健康とか家族とか人生とか人間関係のことを考えて私って人生どうなるんだよ〜と思い仕事中メソっていたが、仕事終わりにうまい台湾料理を食べてうまい飲み物を飲み〆に揚げアイス食べたら全部どうでも良くなった。

 

この年になってようやく友達を大事にしようという気持ちが強く芽生えてきた。友達のいいところはそこに「強制」「契約」「義務」が発生しないところで、好きなときに好きな相手と好きな話をできる、そういうことを私は愛している。

定期的に会うことを義務化されたり相手に何か(生活費など)を握られてしまって媚びなきゃいけないような関係になると途端に嫌になる(と思う)。アンコールを強制されるコンサートで覚える不快感と似ている。完全に私の自由意志で他者を愛していたい。

 

人間が好きなので人間の話をたくさん聞きたい。趣味でも好きな季節でも苦手な場所でも性癖でもなんでもいい、その「理由」を自分の言葉で語れる人がとても好きだ……。人があるものを好きな/好きじゃない理由、無限に聞いていたい。

そういうことを語れる人とそうじゃない人って結構ぱっきり分かれる印象だな。語ってくれる人はいろんなことについてたくさん語ってくれるけど語らない人は一切語らない。私が単に相手との仲を深められていないだけかもしれないが。

 

人間が好きだから特に好きな人間との関係性を維持していきたい。定期的に食事に誘ってくれる友や連絡をくれる友、マジ感謝

そういいながらも人間関係リセット癖はなかなか消えそうにない。正直、ラインもツイッターも全部消してスッキリしたい